第6回 3本目の脚

NPO「交通事故サポートプログラム大阪」 の手伝いをさせてもらうようになってから高次脳機能障害に関する本をよく読むようになりました。
そのおかげ で脳外科の患者さんの症状をこれまで以上によく理解できるようにもなりました。これまでは患者さんがあまりに「変わった」ことや「稀な」ことを言うと、医 学の常識ではそんな異常なことはあり得ないと無視したり、統合失調症による幻覚や妄想が否定できないと考えた場合には精神科受診をすすめるようにしており ました。しかし、現在は患者さんの「異常」と思える訴えも脳科学の立場から明快に説明できる場合があることに気付きました。

最近、「余剰幻肢」という言葉に初めて出会い驚きました。自分の腕や足の数が増えてしまったと感じる症状のことです。
実は、人間の「体のイメージ」は脳が作っています。例えば自分の身体の片側半分が無いと感じたり(半側身体失認)、切断されてすでにない腕がまだ存在していていつまでも痛いと感じてしまう (幻肢痛)などの症状は脳が原因で起こることはよく知られております。しかし、手足の数が増えてしまうという症状があり、それが脳の異常で起こるということは知りませんでした。


私が読んだ本には前頭葉の脳梗塞で3本目の腕が体から生えていると感じられるようになった女性の話が載っていました。もちろん、その3本目の腕は見えません。ところが目を向けていなければ、1分ほど前に自分の左腕のあった位置に、3本目の腕があるように感じられるそうです。
たとえば、本当の左腕を椅子の肘掛けの上に置いていて、次いでこの左腕を机の上に移動しても、3本目の腕がまだ肘掛けの上に置いてあるように感じられるとのことです。実際にそちらに目を向けると、この3本目の腕の感覚は消失します。時に下肢も3本になってしまうそうです。私が「余剰幻肢」という症状を知って驚い た訳は、脳外科医になった頃に受け持った脳挫傷の女性を思い出したからです。この女性は時々「3本目の脚が痛いです」と言っておられました。当時の私は「3本目の足などあり得ない」と一笑に付してしまったことを、今では恥ずかしく思います。

今日、高次脳機能障害を扱った本は沢山ありますが、それらのほとんどは高次脳機能障害の原因に関する説明や介護の仕方の具体的な方法についてのものです。高次脳機能障害の患者さんが示す症状を理解するための脳科学的な基盤について詳しく述べられているものはほとんどありません。高次脳機能障害の患者さんが示している症状は、頭部外傷や脳卒中の結果「失われた機能」と「保たれた機能」とのバランスの上に出現しているものと思われます。患者さんの介護やリハビリテーションを進めていくためには、これらの保たれた機能をフルに活用して、失われた機能を補っていくことが大事ではないかと思っています。

この記事の著者

  • 安井 敏裕先生
    専門:脳血管障害・高次脳機能障害
    大阪市立大学医学部卒 馬場記念病院脳神経外科部長、大阪市立総合医療センター脳神経外科部長、大阪市立大学医学部臨床教授、同志社大学社会学部社会福祉学科非常勤講師等を経て現在「クリニックいわた」、「梅田 脳・脊髄・神経クリニック」に勤務。
    日本医師会産業医、大阪医師会紛争特別委員会脳神経外科委員
  • 安井先生
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