第1回 高次脳機能障害をめぐる混乱

私は1977年に大学を卒業後、30年以上脳神経外科医として働いて来ました。

そして、その間に多くの脳外傷や脳卒中の患者さんの診療にあたり、高次脳機能障害を呈する患者さんの主治医となったことも度々あります。その都度、専門書や教科書を読み、高次脳機能障害の勉強をしてきましたし、時には高次脳機能障害を専門としている脳研究者や医師に質問もしてみましたが、「今でもよく分からない」というのが正直な感想です。 こんなことを書くと患者さんやご家族の皆さんは、日頃偉そうなことを言っている脳外科医といってもこの程度かと不安に思われるかも知れませんが、現在、高次脳機能障害というものの中身は非常に曖昧で、学問的にはまだまだ確立されていないというのが現状です。

しかし、私なりに理解できたのは、今日、高次脳機能障害といわれているものが、世の中に2種類存在するということです。

一つは「学問的」高次脳機能障害であり、もう一つは「行政的」高次脳機能障害です。

「学問的」高次脳機能障害というのは、少し聞きなれない言葉かもしれませんが、失語、失認、失行などの症 状をおもな研究対象としており、私たち脳外科医の多くは、今でも高次脳機能障害=「学問的」高次脳機能障害と思っております。

一方、近年、高次脳機能障害 が深刻な社会問題としてテレビや新聞で大きく取り上げられるようになっておりますが、この場合の高次脳機能障害は厚生労働省による高次脳機能障害支援モデル事業によって平成18年に診断基準が作成された「行政的」高次脳機能障害のことを指しているようです。ここで、「行政的」高次脳機能障害とは「記憶障 害」、「注意障害」、「遂行機能障害」、「社会的行動障害」の4つの症状を指します。

この平成18年の「行政的」高次脳機能障害の診断基準が出てから、われわれ脳外科医の間に大混乱を来たしました。すなわち、高次脳機能障害といえば、我々は従前通り失語、失認、失行などの「学術的」高次脳機能障害のことと思い、マスコミ、法曹界、患者会などは平成18年度に出された「行政的」高次脳機能障 害のことと捉えるようになったからです。

我々が高次脳機能障害の中心的症状と考えていた失語、失行、失認は何処へ行ってしまったのかという感じです。現在では、この二つの高次脳機能障害の存在に気づいている脳外科医は増えつつありますが、まだまだ徹底しているとは言えません。高次脳機能障害には二種類ある という認識および世の中では「行政的」高次脳機能障害=高次脳機能障害という認識が広く広まっているという理解が脳外科医の間に広がるには、まだまだ時間 がかかると思われます。

従って、それまでの間は脳外科医と患者さんとの間で高次脳機能障害に関して認識の相違がありえると言うことは理解しておく必要があると思います。

この記事の著者

  • 安井 敏裕先生
    専門:脳血管障害・高次脳機能障害
    大阪市立大学医学部卒 馬場記念病院脳神経外科部長、大阪市立総合医療センター脳神経外科部長、大阪市立大学医学部臨床教授、同志社大学社会学部社会福祉学科非常勤講師等を経て現在「クリニックいわた」、「梅田 脳・脊髄・神経クリニック」に勤務。
    日本医師会産業医、大阪医師会紛争特別委員会脳神経外科委員
  • 安井先生
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